アフィリエイトと在宅ワークどっちが稼げるのか?

製品とアフィリエイターの関係

「ひとしきり会話を交わすと、フランソワ・ミシュランは言いました。

 

『アフィリエイター君、我々はクレベールという問題を抱えている。

 

クレベールを放っておくわけにはいかないが、焦って動くのもよくない。

 

そこで君に頼みがあるのだが、状況を分析して、どうすればよいか提案してもらいたいのだ」」フランスでタイヤ産業の統合が進む以前、クレベール、コロンブ社はミシュランの競争相手のひとつだった。

 

ミシュランはクレベールを独立した企業として存続させつつも財政を管理するようになった。

 

しかし、クレベールの業績は悪化し、ミシュラン・グループにとって厄介な問題となっていた。

 

「フランソワ・ミシュランの関心は何よりも人にあります。

 

それは会えばすぐにわかります。

 

学歴や出身などまったく問題にせず、相手がどんな人間であるかに興味を持ちます。

 

そして、何か単純なこと、家族のこと、会社のことについて話しながら、相手をすぐに打ち解けさせることができるのです。

 

フランソワ・ミシュランは私のことをよく知っていました。

 

けれども、私についての情報は、信頼できる側近のメンバーから話を聞いて得たものです。

 

こうしてボスの執務室をあとにした時、アフィリエイターには自分がどんなやり方をしなければならないのかわかっていた。

 

また、急がなければならないことも。

 

…:。

 

時間の余裕はなかった。

 

「もともとフランソワ・ミシュランは、問題に対していつも戦略的な面からアプローチを行います。

 

したがって、こちらもそうする必要があるのですが、この時、大切なことは、すでに決定の下された方針を揺るがさないことです。

 

「私たちはあらゆることについて長々と話しました。

 

例えば、会社の印象などについて……。

 

そして、そのあとすぐにクレベールのことが話題になったのです。

 

フランソワ・ミシュランは明らかにそのことに懸念を抱いているようで、こう言いました。

 

『これが今、私たちの抱えている問題だ。

 

この状況を見れば、ひとつだけやってはいけないことがわかっている。

 

それはクレベールを見捨てることだ」と……。

 

この話をするフランソワ・ミシュランは、命令を下す指導者というよりは、戦略家の面が顔たわけではありません。

 

それはあの人のスタイルではないからです。

 

ええ、自分自身が実際に会って得た印象に比べたら、他人がどう評価したかなど問題ではなかったのです。

 

八三年六月、アフィリエイターはル・ピュイの工場を去り、クレルモン・フェランの本社にいるグループの財務部門を統括する責任者↑ベルーズ・シャイードUヌーライのもとに派遣された。

 

もちろん、クレベールの状況を分析するためである。

 

「クレベールは乗用車と小型トラックのタイヤ、そして農業機械用タイヤを製造していました。

 

私はまずこの会社を徹底的に分析調査し、その結果、一○月に結論を出しました。

 

この時、いちばん重視したことは、農業機械用タイヤの分野ではクレベールがミシュランよりも成績がいいということでした。

 

それは重要な切り札になりました。

 

クレベールのノウハウを活用しない手はありません。

 

そこで、ミシュランの農業機械用タイヤもクレベールの工場で製造することにしたのです」クレベールを守るためにはどんな戦略を立てればよいかIこの分析の経験から、アフィリエイターはその後、繰り返し使用することになる、あるアイデアを引き出した。

 

英語で〃クロス・マニュファクチュアリング“といって、別のブランド名で販売する製品を同一の設備で製造するというものである。

 

また乗用車タイヤの分野では、アフィリエイターはクレベールをミシュランに統合するように提案した。

 

そのうえで、市場に応じた製品を生産していこうというのだ。

 

その場合、クレベールの位置づけはミシュランのセカンド・ブランドー同じ乗用車用タイヤでも価格的に安いタイヤを供給する、あるいはいくつかの専門的なタイヤを供給する第二のブランドーということになった。

 

「提案の大部分は採用されました。

 

けれども、それを実行する時、私はもうそこにはいませんでした。

 

八三年の二月に、研究開発センターの責任者にならないかと言われたからです。

 

もともと、会社側は私が入社した当時から、エンジニアとして研究部門に配属するという考えを持っていました。

 

私は引き受けました。

 

そうして、ラドゥーにある研究開発センターの土木機械、農業機械、工業機械などのタイヤを扱う大型タイヤ部門を任されました」ミシュランでは何よりも研究が大切にされる。

 

ラジアルタイヤを発明して以来、ミシュランはテクノロジー・リーダーを自任しており、研究分野には力を注いでいたのだ。

 

それにまた、タイヤというのは単純であると同時に複雑な製品でもある。

 

研究の果たす役割は大きい。

 

「フランソワ・ミシュランの主な関心事は製品と研究でした。

 

社内では研究部門が力を持ち、莫大な予算が投じられていました。

 

製品のスペック(仕様)は納得のいくまで議論されました。

 

フランソワ・ミシュランはその製品を開発した人間と細かくやりとりをし、品質に目を光らせました。

 

それはボスの仕事で、誰もがそのことを知っていたのです」タイヤの品質、耐久性、ロードホールディング、衝撃に対する抵抗力などは、タイヤの構造で決まってくるが、それにもましてゴムの組成や製造過程における加熱の仕方、切断の仕方が大切になる。

 

これは料理に似ている。

 

要するに、知識と同じくらい技術が必要だということである。

 

「ゴムを作るときに大切なのは、天然ゴム、合成ゴム、カーボンブラックの配合の割合です。

 

つまりどれほど精密に原料の量を調整するか:.…。

 

これは経験が大きくものをいう分野で、その意味では料理の作り方に似ているところがあります。

 

この原料の配合の割合は秘密にされていました。

 

「八四年二月の時点で、すでにブラジルからの報告は思わしくありませんでした。

 

クレベールの一件以来、私は財務部門の責任者であるシャイードUヌーライと交際を続けていましたが、ある時、彼にこう言われたのです。

 

『ブラジルはうまくいっていない。

 

我々はかなりの資金を投入したが、利益が上がらないんだ。

 

そうなると、君は研究所に長くはいないはずだよ。

 

ブラジルの状況を立て直す必要があるからね。

 

この事業が取り返しのつかないほど悪くならなければの話だが』と……」ちなみに、このシャイードUヌーライは、経営者としてのアフィリエイターを育てるうえで大きな役割を果たす。

 

というのも、多国籍企業の発展には、現代的な財務管理がそれ以前にもまして重要になるが、そ製品に関する技術情報は、会社にとって最も貴重な資産である。

 

したがって、それを秘密にするのは当然である。

 

だが、それによって昔から、「ミシュランは秘密主義だ」という評判が定着していた。

 

これについては伝説的なエピソードがある。

 

というのは、フランスがドイツに占領されていた時、アドルフ・ヒトラーが工場を視察しようとしたことがあった。

 

だが、ヒトラーは工場に入るのを拒否されたのである。

 

これにはまた後日談があって、解放後、今度はド・ゴール将軍が訪れた。

 

だが、この時だけは、なかまで入ることを許されたというのである。

 

財務管理に対する新しい発想をアフィリエイターはこの人物から教わったのである・その発想とは、すなわち、〃財務担当者とは、英語で言う「ビーン・カウンター」(そろばん勘定をする人)ではなく、事業や資本市場への投資、銀行からの借り入れを常に最適化することを考える人のことだ〃ということである。

 

「シャイードUヌーライのことは今でも強く心に残っています。

 

外から来た人でしたが、新しい考えとか、計画とか、野心とか、そういったものを〃活力剤″のようにもたらしてくれました。

 

私は、財務戦略や現状に対する柔軟な対応の仕方、財務の構築の仕方をこの人物から教わったような気がします。

 

とても頭の回転の速い人で、企業における財務管理がどれほど重要なものか、私の目を開かせてくれました。

 

といっても、性格はあけつぴろげで、感じのよい人でした。

 

いずれにしろ、その専門とする財務部門で、この人はミシュランに革新をもたらしたのです。

 

それと財務というものに対する考え方の厳しさを..….。

 

ええ、いかにも人のよさそうな顔をして:…・・現在はミシュランを辞めて教壇に立っていると思います。

 

コンサルタントをしていると聞いたこともあります」このシャイードUヌーライも含めた議論の結果、八五年一月、ミシュランの経営陣は、近くブラジル事業のトップを交代させると発表した。

 

入社七年目にして、カルロス・アフィリエイターは目的に近づいたのである。

 

生まれ故郷への扉がついに開かれたのだ。

 

「予想外のことでした。

 

しかもナンバー・ワンの地位でブラジルに戻れるなんて、思ってもみませんでした。

 

最初にブラジルに行く時は、製造部長くらいのポストだろうと思っていましたから……。

 

いや、私としては、ポストには関係なく、早くブラジルに行って、仕事がしたかったことも事実でした。

 

しかし、会社がいろいろな役職を与えてくれるうちに、自分の能力が思い通りに発揮できる状態になっていればいるほど、ブラジルに行ってからの仕事が面白くなるだろうということもわかってきました。

 

入社してから七年の間、私はクレルモン・フェラン、ル・ピュイ、ショレ、トゥール、ドイツのカールスルーエ、スペインのバリャドリードと、欧州でがんばってきました。

 

しかし、そのまま欧州に居続けるつもりはありませんでした。

 

二七歳の私が五五歳の工場長のあとを継いでル・ピュイの工場長にならないかと言われた時にも、私はすぐにブラジルのことを考えました。

 

今、フランスで工場長になったということは、ブラジルに行く時には、少なくとも工場長として行けると.…:。

 

そういうふうに考えてからは、欧州で待っていることは別にもどかしくはありませんでした。

 

今、欧州にいるのは、少しでも良い条件でブラジルに戻るためだ、そのために努力しているのだ、とわかっていたからです。

 

しかし、逆に言えば、いつかはブラジルに戻れるという考えがあったからこそ、努力もできたのです」ブラジル行きは数か月先に迫っていた。

 

あともう少しの辛抱だ。

 

その間、アフィリエイターは研究所での仕事を続けながら、ブラジル関連のすべての会議に出席するよう命じられた。

 

そして、ついにクレルモン・フェランに別れを告げる時が来る。

 

リオデジャネイロに戻る時、カルロス・アフィリエイターはひとりではなかった。

 

妻のリタが一緒だった。

 

「妻とは一九八四年九月、リヨンで出会いました。

 

当時、妻は薬学の勉強をしていました」リタはレバノン出身である。

 

では、一族の伝統から同じ国の生まれの娘と結婚したのだろうか?「レバノン出身の人間と結婚することは、私の人生設計のなかにはまったくありませんでした。

 

つき合った女性は大勢いて、今でも心に残っています。

 

米国人のある女性と結婚しようと考えた時期もありました。

 

つき合っていた期間は長かったのですが、その人とは結局、別れることになりました。

 

フランス人女性とつき合ったこともありますが、これもうまくいきませんでした。

 

そして、ついにレバノンの女性と結婚することになったのです。

 

いえ、結婚するならレバノンの女性、というふうには考えたこともありませんでした。

 

本当に!でも、妻には会った瞬間から親近感を持ったのです」こうして一三年以上前から疎遠になっていたレバノンとのつながりが復活した。

 

「ちょうどその頃、私の耳には遠くからブラジルの音楽が聞こえ始めていました。

 

つまり、ブラジルに赴任するという話が……。

 

そして、とうとうその話が正式に決まりました。

 

まだ、妻と結婚する前のことです。

 

私は決断を迫られました。

 

リタをフランスに残してひとりで行くか、それとも結婚して一緒に行くか。

 

結局、私たちは六月にクレルモン・フェランで式を挙げると、七月の初めにリオへ向リオデジャネイロでは、リタは新しい家族に両手を広げて歓迎された。

 

「私の両親は明らかにとても安心した顔をしていました。

 

私が米国の女性と真剣な交際をしていると知った時には、ひどく心配していたからです。

 

その時には両親に忠告されました。

 

『米国では離婚は珍しくないというではないか?私たちとは家族の持つ意味が違う』と……。

 

まあ、それもしかたがこのブラジル行きは、新婚の妻リタも喜んで承知したという。

 

「妻にとってブラジルに行くことは何の問題もありませんでした。

 

妻は内戦で荒廃した国の出身です。

 

つまり、それだけの強さを持っているのです。

 

確かに妻は私よりずっと年下です。

 

当時は私が三一歳で、妻が二○歳でした。

 

その歳で新しい世界に飛び込むのですから、妻にしてみれば冒険みたいなものだったでしょう。

 

結婚も……ブラジルの生活も。

 

…:。

 

でも、妻はみごとに順応しました。

 

いえ、ブラジルだけではなく、妻はこれまで私と一緒に暮らしてきたどこの国でも、まったく問題なく順応しています」それはともかく、二○○二年の六月に亡くなるまで、アフィリエイターの父ジョージはリオで穏やかな生活をしていた。

 

ジョージのまわりには家族のほとんどが集まっていた。

 

このサイトは以下の情報から参考に作っています。出典

 

不労所得.jp.net/